こんにちは、山キャン情報室 管理人の亀太郎です。
このブログを見ている方は、「セロトーレって山はいったい何者なんだ」っと思われている方も多いのでは?
僕もその一人でした。
でも、いろんな記事を調べても、断片的にしか書かれておらず、なかなかその全容がわからないので、徹底的に調査してみました。
ここでは、セロトーレへの山容はまるでナイフの刃で、初登頂から数多くの事件を経て映画化まで結び付いた内容を紹介します。
- この記事を書いている人
登山歴:2007年~キャンプ歴:1995年~ - 九州の大学卒業後、愛知県の自動車会社で車体構造の研究に従事する傍ら、1995年からデスクワークのストレス解消にオートキャンプを始める。
2007年からは、「山頂でテント泊をしたい」との単純な発想から、登山を独学で学び(一時期、山岳会に所属)、今はソロテント泊主体に活動中。
そんな経験もふまえ、大手メディアでは取り扱っていないノウハウや小ネタ情報を発信しています。
セロトーレってどんな山?
セロトーレはチリのパタゴニアの氷原にあり、標高は3128 mと富士山よりも低い。
山容はつるつるした花崗岩の山で、ナイフの刃って感じで、その先端の山頂は氷の塊で覆われています。
天候は、晴れて雲が遠くの方に見えていても、その15分後には風速130km/h の強風に見舞われるという劣悪な環境だそうです。
その厳しさから、ヒマラヤよりも難攻不落だとも云われ、地球上で最も困難な山のひとつとされています。
そのすごさは写真を見れば一目瞭然ですが、セロトーレを有名にしているのは、その登山の困難さからか、初登頂から数多くの事件があり映画化までされていること。
ここでは、その点を中心に時系列に整理しましたので、次から順を追って紹介します。
疑惑の初登頂(1959年)
初登頂はイタリアの登山家チェザレ・マエストリで1959年。
ただ、これに大きな議論が。
一緒に登った登山家が下山中に転落して亡くなり、それでも単独で登り続けて、その際に撮影した写真機も転落。
そのため、登頂した証拠がなく、本当に成功したのか疑われる事態に。
なので、初登頂の1959年は、文献によっては間違いだとも。
詳細は世界一危険な山はどこ?登山難易度で独自に1位から10位までランキングでも紹介しています。
南東稜へのボルト連打事件(1971年)
1959年の疑惑を晴らすべく、チェザレ・マエストリが1971年に再度セロトーレに挑戦。
これがクライマー界で有名な「ボルト連打事件」の始まりとなりました(上の写真の〇がボルトです)。
チェザレ・マエストリ隊はなんと「ガス・コンプレッサー」を持ち込んで、電気ドリルで360本もの「埋め込みボルト」の連打をおこないました。
これは、後に、「コンプレッサー・ルート」と呼ばれ、機械と足場があれば何でも克服できるというスポーツマンシップに反する行為として、世界中で非難を浴びることに。
クライミングの技量を高めて薄いラバーソウルの靴と素手で壁を登るのではなく、難しいところがあれば岩に穴を無理矢理開けて、ボルトを埋め込み、あぶみと呼ばれる小さなハシゴをかけながら登ってしまおうというやり方。
人口登攀自体は悪い事ではないと思いますが、360本は打ちすぎでしょうね~
もっと詳しく説明すると、130キロ以上のガスコンプレッサー(上の写真)と何百メートルもの固定ロープを使い、岩に360本のボルトを打ち込んだらしいです。
クライミングに適したクラックがある場所にもボルトを連打し、自然の岩を避けて登れるように。
ただ、これだけの事をしたにもかかわらず、天候悪化で山頂手前の30メートル地点で敗退。
下降時には、後にあとにやって来るクライマーが使えないよう、埋めたボルトを撤去。
後に、彼は「ボルトをすべて撤去して、岩を元のクリーンな状態に戻したかった」と説明したが、それすら、20本撤去したあと、悪天候のプレッシャーに負けて、それを放棄したらしいです。
それから40年後に、フリークライミングで、セレトーレは制覇されることになりますが、次に紹介します。
ボルト撤去事件(2012年)
クライマーはアメリカのハイデン・ケネディとカナダのジェイソン・クラークで2012年。
二人は13時間と云う驚異的に短い時間で、「コンプレッサー・ルート」をボルトを使わず、フリー・クライミングだけで登り切った。
この成功は、悪名高きボルトを使わない、「公平な手段?」による登攀で、世界中の人が偉大な登頂を称賛。
ただ、ここでもまた、ボルトに関する論争が。
二人は下降時に120本のボルトを撤去しちゃったそうです。
賛否両論あり、これが「ボルト撤去事件」と言われているものですが、セロトーレにはいろんな論争があるんですね。
この↓動画に二人の登頂シーンの写真がたくさんありますので、よかったら(9分と長いですが、ド迫力です)。
次に、この時期と前後してセロトーレに挑んだ物語を次に紹介しますね。
「 クライマー パタゴニアの彼方へ」2013年
「ボルト撤去事件」と前後してセレトーレに挑んだのがデビッド・ラマ。まずは、どんな方なのか紹介します。
フリークライマー デビッド・ラマ
- 2005年にユースの大会でワールドチャンピオン
- 15歳でシニアのワールドカップへの出場を特別に許可され、史上最年少で世界王者に
- その後もヨーロッパのチャンピオンシップで2つのタイトルを獲得
そんなオーストリアのデビッド・ラマが挑んだのが、フリークライミングは難攻不落と言われているセロトーレ。
1回目の挑戦
1回目の挑戦は2009年の11月
ただ、強風が吹き荒れるパタゴニアのセレトーレで“下山できる見込みがない”状況に追い込まれ、下山を余儀なくされた。
さらに、撮影チームが新たなボルトを打ち込んみ、それを残してきた事で山岳界から非難を浴びることになり、公の場で謝罪する事に。
2回目の挑戦
2回目の挑戦は、2011年1月
また、自然の力が牙を剥く中、1度は下山したが、2011 年2 月12 日に再挑戦して何とかフリークライミングで山頂に到達。
しかし、登頂途中の極限状態で、しかたなく先人たちが残したボルトを使った為、また挑戦は失敗に。
これって、本当に失敗なのか、亀太郎には理解不能ですが。
3回目の挑戦
3回目の挑戦は2012 年1 月
ただ、出発直前に前述した「ボルト撤去事件」が勃発して、撮影クルーはプランの大幅変更を迫られる事に。
そんなアクシデントに見舞われながらも、前回までの地点までは順調に進んでいくが、その先の壁は想像以上に困難なものだったらしいです。
心が折れそうになりながらも自分を奮い立たせ、命綱のロープが切れてしまう危険性もありながらも登頂。
それらのシーンを全て収録したドキュメント映画「 クライマー パタゴニアの彼方へ」が2013年に公開されて話題となりました。
その抜粋がこの↓動画に1分程度でアップされてます。
なお、映画はビデオ化されて見れますので、良かったらどうぞ。クライミングだけではなく、パタゴニアの美しさも感動ものですよ。
でも。。。。
そんな、栄光を獲得した、デビッド・ラマ氏ですが、2019年の春にカナダ・バンフ国立公園内で発生した大規模な雪崩に巻き込まれてお亡くなりになったそうです。
心から冥福を祈ります。
まとめ
以上、セロトーレへの山容はまるでナイフの刃で、初登頂から数多くの事件を経て映画化まで結び付いた内容を紹介しましたが、いかがでしたか?
僕はクライミングはやりませんし、命を懸けて山を登る勇気はありませんが、同じ山好きとして山頂に立ちたいっという気持ちは同じだなって感じました。
フリークライミングやボルダリングをやられている方の参考になったら幸いです。