こんにちは、山キャン情報室 管理人の亀太郎です。
1953年にヒラリーがエベレストに初登頂して70年近くたち、それ以降、登山技術や装備は当時から比べものにならないくらい進歩してきてますよね。
でも、標高はエベレストより低いものの未踏峰の山が数多くあり、そんな山に焦点を絞って、その理由やエピソードを調査しています。
ここでは、人類未踏峰の山 梅里雪山の謎を調査すると、そこには悲惨な遭難事故があったので、紹介します。
- この記事を書いている人
登山歴:2007年~キャンプ歴:1995年~ - 九州の大学卒業後、愛知県の自動車会社で車体構造の研究に従事する傍ら、1995年からデスクワークのストレス解消にオートキャンプを始める。
2007年からは、「山頂でテント泊をしたい」との単純な発想から、登山を独学で学び(一時期、山岳会に所属)、今はソロテント泊主体に活動中。
そんな経験もふまえ、大手メディアでは取り扱っていないノウハウや小ネタ情報を発信しています。
「梅里雪山」ってどんな山?
梅里雪山は日本名称で『ばいりせつざん』と呼ばれ、いくつもの山々がつながっている13連山の総称です(長さ30km)。
中国の雲南省にあり、地図で見るとこんな↓所です。
チベット仏教の聖地で、その中で一番高い山が『カワクボ(標高6740m)』。
13連山の全てが未踏峰。
1991年には日中合同の17人の登山家が遭難するという悲惨な遭難事故があり、それが、はからずも日本の中ではその事が有名となっています。
次に、未踏峰になっている理由を紹介します。
未踏峰の理由
三つの大河に囲まれた特殊な地形による過酷な気候条件
上の写真の様に、梅里雪山の周囲は、三つの大河が100㎞弱の間隔で並行して流れる世界でも稀に見る地形となっています。
そのため、急流によって削り取られた連山は険しく、インド洋からのモンスーンの影響で一年中雪に覆われ、攻略をさらに困難なものにしているようです。
写真で見ると、こんな↓感じで美しいですが、美しいものほど棘があるって事でしょうか?
チベット仏教の聖地という宗教上の理由で2000年から登山禁止に
地元の人の中には「神聖な山を汚す存在」として登山隊を嫌う風潮が強く、「登山隊の遭難は当然の天罰」とする考えが根付いていたようです。
そのため、信仰と文化の尊重の為、2000年に将来に渡り登山活動は禁止されています。
2000年に登山禁止になるまでには、いろんな登山家が挑んでいたようで、次に紹介します。
「梅里雪山」に挑んだ日本人の悲惨な遭難事故
チベット仏教信徒による巡礼登山は数百年前から行われていますが、いずれも山腹にある寺院まで。
1902年から登頂の試みは始まり、アメリカ、イギリス、日本、中国などがそれぞれ5・6回ほど登山隊を派遣してますが、登頂は全て失敗。
その中で、1991年に日中合同の17人の登山家が遭難するという悲惨な事故が起きており、詳細を調べましたので、紹介します。
1991年の日中合同登山隊の遭難事故
遭難事故までの経過を箇条書きにしてみました。少し、長いですが、読んでみて下さい。
- 1990年12月:日中合同の42名の登山隊により、カワクボの麓にベースキャンプを設置。
- 1990年12月末:カワクボの山頂まで270mのポイントにいったん到達。
- 京都大学学士山岳会を中心とした11名の日本人登山家と、6名の中国人登山家の総勢17名が標高5,100m付近に設置された第3キャンプに集合して、頂上アタックへの態勢を整えていた。
- 1990年1月1日:降雪が強くなり、3日には積雪量は1mを超える。
- 1990年1月3日:22時の無線交信を最後に、第3キャンプとの連絡が途絶える。
- 救助隊が現地へ入るも、悪天候で第3キャンプへ接近できず。
- その後、航空写真の分析でキャンプ地が雪崩による大量の雪に埋め尽くされている事が確認され、17人の生存は絶望的となった。
- 約3週間後、誰一人戻らないまま捜索は打ち切られた。
キャンプ地は斜面から充分に離れており、雪崩の危険性は少ないと思われていたようですが、自然の猛威を感じずにはいられないです。
遭難事故から7年経って。。。。
事故以降の捜索の経緯です。書きづらい部分もありましたが。。。。
- 1996年:日中合同登山隊が、事故後初めて第3キャンプに到達するも、遺体やテント、遺品は発見できず。
- 1998年8月以降:山麓を流れる氷河の末端から、氷河に流入した遺体や遺物が続々と現れ始める。
- 現地の村人や捜索隊により、17名中16名の遺体やその一部、または遺品が発見・収容される。遺体の多くが寝袋に入っていたことから登山隊は睡眠中に雪崩に巻き込まれたことがほぼ確定。
- 2006年10月:京都大学学士山岳会により、山麓の村に記念碑が設置(この碑には「日中の17人の勇士、ここに永眠する」と記されているそうです)
遺体発見を記事にした1998年8月の毎日新聞のスクラップを見つけたので載せておきますが、ホントに悲惨です。
冥福をお祈りします。。。
著書:梅里雪山―十七人の友を探して(単行本 2006/1/25 小林 尚礼著)
事故当時、京都大学3年生だった小林さんが、遭難した同じ山岳部の同級生や先輩を何度も現地に赴いて捜索した思いを著書にされています。
捜索パートナーを引き受けてくれた村長ともに集めた遺品は1tonを超え、事故当時は「聖山を汚した者」として敵視していた村人との交流も芽生えたそうです。
本書は、日本テレビのドキュメンタリー番組の原作にもなったそうで、よかったら読んでみて下さい。
まとめ
以上、人類未踏峰の山 梅里雪山の謎を調査した内容を紹介しましたがいかがでしたか?
日本人登山隊による悲惨な遭難事故は忘れない様にしたいものです。